総合人助けで儲けてもいいじゃないか
人助けが営利に結び付くと非難する人の意識は小さなコミュニティの論理に根差している。人助けで儲けてもいい。
障害者支援、女性の就業支援等のNPO活動を知る機会が増えて、他人のためにがんばる人たちが多くいることを改めて知った。彼ら彼女らの活動は素晴らしいと思うし、なんら異議を申し立てる気もない。そういう人々が殺伐とした世の中をほんの少し明るくしているとも思う。唯一違和感があるのは、彼らの営利に対する偏見のようなものである。極端に表現すれば、営利企業は社会貢献に寄付して当たり前で、しない企業は悪徳。社会貢献を利用して儲けるなんてあり得ない。表だって言わなくとも、人々の根底にうっすらと存在しているこの意識はいったいどこから来るのだろう。
行動経済学者ダン・アリエリーの著書『予想どおりに不合理』という本に、このことの人間心理を説明する「社会規範のコスト」という章がある。母親が心を込めて用意したパーティ料理にお金を払おうとして家族関係が悪化する、30ドルの低報酬だと困窮者相談を引き受けない弁護士が、無報酬なら喜んで協力する等々。要するに人は、他人に何かをしてあげて感謝される、という社会的な意義がモチベーションとなり、報酬ともなり、それを貨幣換算されることを好まない、という傾向があることを具体的な事例で紹介している。これもまた、普遍的な真理だろう。そしてこの人間心理が、社会貢献に対価を得ようとする行動を嗅ぎ分け、非難させるもとになっているように思う。
しかし、この「お互い様」の人間関係で、無償で手助けしあえるのは、それがある程度、範囲が限定されたコミュニティ(=共同体)であるからではないだろうか。家族や長屋や村や、それとも職業や趣味のコミュニティ内でのルールなら納得できる。そうやって助け合う社会性が人間の特性だし、そういうローカリズムもあっていい。けれど、社会は小さなコミュニティでは閉じにくくなっている。インターネットという情報網とあらゆる交通網・物流網が発達し、日本全国のみならずグローバルに広がっている。小さなコミュニティのローカルな論理には収まり切れない。
このことを考えさせられたのが、東日本大震災である。震災直後から、様々な人や組織が、それぞれのやり方で被災者の支援、復興の支援を行った。ネット上には支援物資や寄付やボランティアの募集情報が飛び交い、また、誰それがいくら寄付をしたというような情報も溢れかえった。この場合、これらの行動は基本的に社会的な助け合いの精神、家族や友達を助けるのに近い、ローカルな社会ルールに則ったものであったように思う。日常の、労働力を提供して賃金を得る、商品を提供して対価を得るという、経済活動とは異なる反応だ。