我が国の人材サービスの黎明期

総合我が国の人材サービスの黎明期

レクシスネクシス・ジャパン(株)が提供する法令・判例・行政総合ソリューション「Lexis AsONE」で好評連載中のオリジナルコンテンツ「Business Issues」から『雇用が変わる ~人材派遣とアウトソーシング、外部人材の戦力化~』をご紹介します。(平成27年11月27日 Lexis AsONE上で公開)

この連載を始めるに当たって

現在、我が国の雇用環境は、少子高齢化、高度情報化、グローバル化の波を受け、めまぐるしい変化の中にあります。日本的経営の「三種の神器」と言われる、終身雇用、年功序列、企業別組合による雇用慣行は限界に達し、もはや雇用改革なしには立ち行かなくなっているというのが現実です。

このような時代の変革期において、企業は新たな雇用の在り方を模索しなければなりません。ますます複雑化する雇用環境において、人々の多様な働き方を認めながらも、事業運営において、いかに「人」を有効に機能させるかという人事戦略を描くことは、企業経営にとって大きな課題になっています。また、企業だけでなく、あらゆる雇用形態で働く個人にとっても大きなパラダイム・シフトが求められている時代と言えるでしょう。

企業にとって、最も重要な経営資源は、「人」「モノ」「金」「情報」であることは言うまでもありません。その中でも「人」ほど企業にとって計り知れない力を生み出す資源はありません。企業に従事する「人」が、商品やサービスを生み出し、「人」が売上向上やコスト削減を図り、「人」が情報を知恵に転換させるからです。言うまでもなく、時代の変化とともに企業の人材マネジメントも変わっていかなければ、我が国の明日はない、と捉えることが必要ではないでしょうか。

我が国における雇用問題は、いまや個人や企業の枠を超え、経済や社会にまで大きく影響する最も重要なテーマの1つとなっています。本書では、外部労働市場、特に企業における人材派遣とアウトソーシングの成り立ちを紐解きながら、企業が戦略的にこれらのサービスを活用するための実務に焦点を当てるとともに、企業の人材ニーズの変化や人々の価値観が多様化する背景を解明し、読者の皆さまと今後の雇用の在り方を考えていければと思います。

時代の変革期を乗り越え、人々が働きがいや生きがいを得ることで幸福な日々を感じられ、企業のさらなる成長につながるよう、この連載が我が国のさらなる発展の一助になれば何よりの幸いです。

 

 【連載目次】
第1回 我が国の人材サービスの黎明期
第2回 労働者派遣法の制定前夜
第3回 労働者派遣法と関連する規制の変遷
第4回 我が国の人材サービス市場を概括する
第5回 人材派遣の導入
第6回 人材派遣活用の事前の確認事項

1 終身雇用が前提だった時代の人材サービス

筆者が初めて人材サービスと関わったのは1989年のこと。今から四半世紀以上前ということになります。この年、電気機器メーカーに勤務していた筆者は、仕事の関係で当時の西ドイツにあった現地法人に赴任し海外駐在生活を送ることになりました。

赴任して最初に驚かされたのが、社員ではない人が会社の中を自由に歩いていることでした。「派遣社員(Temporary Worker)」という名称はもちろん、「人材派遣」というサービスがあることすら知らなかったので、当初は「社員ではない人」としか表現できませんでした。しかも秘書とか経理とか、日本では考えられないような仕事をしているのです。それどころか会社の鍵まで持っている。今では派遣社員の皆さんがセキュリティカードを持っているのが当たり前になっていることも多く見受けられますが、当時としては衝撃的でした。

日本では1986年に「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律」(以下、「労働者派遣法」という。)が施行された直後のことであり、世間では人材派遣という概念すら一般的ではない時期でした。

西ドイツでは、当時のアディア社(現在のアデコ社、本国スイス)から人材派遣サービスの提供を受けていました。西ドイツの労働者派遣法は1972年に制定されたそうですが、筆者が渡独した当時はすでに社会的に一般的なものになっていたように思います。

西ドイツ国内のどこの街に行ってもアディア社の看板を見かけました。ほとんどが路面店で不動産業のような造りだったことを覚えています。次の仕事を探す、ということが日常のこととして行われる風潮だったのでしょう。

「社員ではない人」に仕事を頼むことは業務上まったく問題はなく、慣れない土地で困っている外国人である私の自動車免許の取得やアパートメントの契約、家具の購入など、プライベートな秘書業務までやってもらっていたのでとても助かりました。

人材サービス業界に携わっている現在だからこそ推測できることですが、おそらく当時は、西ドイツでも事前面接は規制されていたのではないかと思います。2年ぐらい働いてくれていた秘書が辞めることになり、その後任をどうするかという話になったときにいきなり新しい秘書を紹介され、その日から就業。それなりに引き継ぎはしてくれていたらしく、ほとんど支障はありませんでした。面接もせずに人を雇うことなど考えてもいなかったので驚くことばかりでした。ちなみに現在、ドイツでは事前面接は可能だそうです。

西ドイツから帰国した後、筆者は、電気通信事業者に転職をしたのですが、人材サービスに関係することに絞ると、テレマーケティングの仕事をしたのが最初でした。社内で人材派遣を利用して行っていたものと社外にアウトソーシングをしていたものの併用でした。社内で試しながら社外に出すという仕組みです。1993年のことですから、まだ日本ではこのような形態はなく、すべてが暗中模索という状態でした。「アウトソーシング」という言葉を耳にすることさえ多くはなかった時代です。当時、すでに我が国の人材派遣事業者の先駆けとして名前を馳せていたテンプスタッフ社が、アウトソーシングに先鞭をつけたばかりの頃であり、創業者である篠原欣子氏(現代表取締役会長)や、現在、日本人材派遣協会の会長でもある水田正道氏(現代表取締役社長)と初めてお会いしたのもこの当時のことでした。

当時の日本は、まだまだ終身雇用の風潮が根強く、転職をするとか、人材派遣で働くということは、やや憚られるような風潮も残っており、西ドイツで見たような人材サービス企業が路面に店舗を構えているようなことはありませんでした。現在でも家賃の関係で路面に店舗を構えるようなことはあまりありませんが、その理由は大きく異なるということです。

2 国内ではじめて導入された「従量課金」のしくみ

人材サービスに関わった二つ目の仕事は、社員と人材派遣でほとんどの業務を行っていた事務センターの運用をアウトソーシングに移行することをミッションにしたものでした。これは、1997年ごろのことでしたが、3年間で70%ぐらいの業務をアウトソーシングに移行させました。金融業界などでは主にパンチ業務をアウトソーシングするようなことはあったようですが、事務処理業務を一貫してアウトソースしたという意味では、筆者は草分け的な存在だったのではないかと思います。

アウトソーシングを導入するときによく言われる話ですが、社内の抵抗勢力には困らされました。社員が既得権を離したがらないことや仕事の変化を好まないということが大きな理由でした。一方では、急成長中の電気通信事業だったということもあり、業務を外に出しても出しても新たな業務が増える状態でしたから、結果として社員も助かったはずです。

アウトソーシングを導入するに当たって前例となるようなことは見当たらず、試行錯誤の連続でしたが、このときに取り入れた「従量課金」の仕組みは、我が国の事務系のアウトソーシングで初めてのものでした。当時、電話料金が3分10円で従量課金されていたことから、業務量に応じて単価を掛け、成果に対して支払いが生じるこの仕組みを従量課金制度と筆者が名付けたものです。

社内に部門別採算制度の管理会計の考え方が行き渡っていたこともあり、一般的には固定費と考えられていたセンターでの運用コストを変動費化し、間接費を直接費としたことは画期的だったと言えます。しかし、オペレーションが一定の軌道に乗るまでには、かなりの紆余曲折もあり、非常に難易度の高いものでした。このことは、従量課金で業務を請けてくれる人材サービス事業者が他になかったことからもうかがえます。

その後もアウトソーシングの進化はありましたが、基本的なことはほとんどこの当時に確立されていたものと考えています。アウトソーシングを導入する以前にも、恒常的に人材派遣を利用していました。オペレーションの規模が大きいセンターだったので、多いときには年間に100名以上の派遣社員を受け入れていました。人材派遣で働くこと自体もかなり一般的になりつつある時代だったと言えるでしょう。派遣料金は、2,000円前後でした。

当時は、現在ほど労働者派遣法について厳しく言われることはなかった、と言うよりも、そのような法律があることさえ一般的には知られておらず、人材派遣会社の営業担当者からアドバイスを受けて初めてその存在を知ったというほど大らかな時代だったと言えるかも知れません。

もちろん会社の信用がありますから法を侵す気持ちはなく、それから労働者派遣法の勉強をしましたが、指揮命令の所在を厳格に守るために人材派遣とアウトソーシングが明確に区別されたオペレーションとなるよう体制を整備しました。

当時の派遣社員の様子を回想してみると、現在、言われているような「派遣労働者はかわいそう」という風潮はなかったように思います。人材派遣で働く人のほとんどは女性でした。感覚的には90%近くは女性だったのではないでしょうか。特に主婦層、または独身であっても親との同居という人が多く、子どもの学費や生活費の足しとか自らの小遣いのため、あるいは社会とのつながりのために働くという理由も多かったと記憶しています。

その後も筆者は、新設の子会社から事務センター、カスタマーサービスセンター、料金センターの業務のアウトソーシングを請けるプロジェクトマネジメント、本社内の料金センターの業務のアウトソーシング化、CRMセンターの立ち上げに携わるなど、電気通信よりも人材サービスの領域のほうが詳しくなったこともあり、2003年に電気通信事業者から人材サービス事業者に転身したといういきさつがあります。

本当の意味での人材ビジネスの黎明期と言うと、職業安定法で間接雇用による労働者供給事業が原則として禁止されている中、1964年に我が国初の人材派遣会社となるアメリカのマンパワー社が日本法人を設立し、キーパンチ、タイプ、速記、テレックス、電話交換などの業務で人材の派遣を始めたころからということになるのだと思います。当時は、業務処理請負業、事務処理サービス業などの名称で事業を行っていたようですが、使用者責任や指揮命令の不明確さなどが法的に問題視されており、労働者供給事業禁止の抵触を免れない状況にあったようです。正式に労働者派遣法が制定されたのは1985年のことですから、実質的に黎明期と言えるのはそれ以降と言うことができるでしょう。

筆者は、ほぼその直後から、発注側である企業と受注側である人材サービス事業者の両面から人材派遣、アウトソーシングの現場に携わってきたこととなります。

続く第2回では、「労働者派遣法の制定前夜」と題して、我が国の労働者派遣法がどのように定められていったのか、その背景を辿っていこうと思います。