ゴールを目指さず「途上」であり続ける勇気 ③

女性雇用ゴールを目指さず「途上」であり続ける勇気 ③

―― 現在、御社の従業員は、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。

桑村:現在うちは、料理屋を運営する「高台寺和久傳」と、物販を運営する「紫野和久傳」のふたつに分かれていまして、「高台寺和久傳」の代表取締役を私、「紫野和久傳」の代表取締役を、母の桑村綾が務めています。

従業員は、料理屋の方は100名くらい、物販の方が300名くらいです。人の出入りがあるので、だいたいの数字ですが、どちらもパートタイマーを含めた数字です。

―― その数をうかがうと、家業というより中小企業といった方がふさわしいですね。

桑村:いえいえ、中小企業なんて言うのは、おこがましい。私の中では、やはり家業と言った方がしっくりきます。

―― 男女比率はどのぐらいですか。

桑村:料理屋の方は、板場とお給仕で半々ぐらい。男性がちょっと少ないかな、というところですね。物販の方は圧倒的に男性が少ないです。比率で言うと、2:8ぐらいでしょうか。

―― そこは世の中の一般的な会社とは、違っていますね。

桑村:そもそも「和久傳」というものが、女性がブランドデザインをして、その中で板場の男性がクリエイターや職人さんとして輝く枠組みになっているんですね。女性には社会が必要とするものを感じ取り、目指すべき方向性を決めて、発展させていく力が、もともと備わっているのではないでしょうか。こういうあり方もいいものですよ。

―― 女性は「腕力」や「権力」より、「公正さ」に敏感な体質を持っています。そういう人たちが作る環境の中で、腕のある男性なり、女性なりが本来の能力を認められて活躍する、というチームのあり方は、企業の中でもっと推進されていいですよね。

「家族」は、ダメな人を見捨てない

桑村:私の経験の中だけではあるのですが、男性がチームを束ねる時は「組織」にしようとしますが、女性は「家族」を作ろうとするのではないかな、と。

―― 桑村さんは経営に「家族」という横軸を入れようとしている。

桑村:「家族」ですから、叱るべき場面では、はっきり叱ります。中には、何べん言っても、ちっとも分らない、という人もいるのですが、だからといって、やめてもらおうとは思わないんです。仕方がないなあ、と思いながら、その人の居場所も含めてチームワークを考えていく。すると、その人が思わぬ戦力を発揮してくれることがあります。

―― なるほど。

桑村:時間もかかるし、投資の回収率も低くなりますが、一緒にゆっくり育っていくからこそ、長い時間軸に耐えられる「何か」が生まれていくのだと思っています。

―― その「何か」こそが、「ブランドの力」なのでしょうが、ここで前回のお話に続けると、京都で「室町和久傳」を成功させ、次に東京で物販を手がけていた最中に、お母さまの桑村綾さんから「京都に戻るように」と“指令”を受けた。そこまで、うかがいました。

桑村:東京には2004年から3年ほどいました。

―― 東京で一から取り組んだ物販事業が軌道に乗り、アイデアもいっぱいあったことでしょう。

桑村:「次はこんなものを作って売りたい」と、商品開発もワクワクしながら手がけていましたし、とにかくスタッフみんなで考えて、みんなで売ることが楽しい真っ最中でした。

―― 綾さんはそこを分かった上で、あえて“指令”を寄越されたのでしょうか。

桑村:いえ、母は直感が頼りの人なので、そこまで計算しているわけではないんです。ただ、その直感が計算以上の結果を生み出すようになることが多いんです(笑)。

―― それで料亭の「高台寺和久傳」に入られたのが2007年。それまでは綾さんが「女将」だったわけですよね。

桑村:はい。高台寺の店が4半世紀を迎えて、お客さまの年代にも世代交代の波が来ていました。時を見て、娘に受け継がせていきたいという思いが母にはあったようなんです。でも、私は料亭の世界なんて全然分かりません。

―― 「室町和久傳」の経営を担当され、軌道に乗せた経験があっても、そうだったんですか。

桑村:町場の料理屋と料亭では、やはり勝手は違います。お客さまの求めるものも、料亭の方が複雑です。私には母のような人間力はないので、料亭にいらっしゃるお客さまと、どう接したらいいのかと、まずそこで途方に暮れました。あと、料亭は花柳界とのお付き合いもありますよね。それについても、まるきり分かっていませんでした。

―― そうか。料亭のお座敷には芸妓さん、舞妓さんもつきものですものね。

桑村:母は娘に料亭を譲ったその日から、一切、店には姿を見せませんでした。母ならではの潔さと、「習うより慣れろ」という親心があったと思いますが、店のスタッフは全員、現場にいない母を念頭に仕事をしているわけです。そんなこともあって、最初の1~2年は、「こんな時に母ならどうするかな」と、本当にその繰り返しだけで過ぎていった気がします。

新社長は、先代が贔屓の店に行くだろうか

桑村:例えばなんですが、贔屓にしてくださっていた社長さんが店に来られて、「そうか、お母さん、いないのか」とおっしゃって帰られていく。中には「娘を応援してあげなくちゃ」と思って、また来てくださる方もあったと思いますが、やっぱり遠のく方もいらっしゃいます。

あるいは、何とか贔屓の社長さんに来ていただくようになっても、その方が会長さんになられると、新しく社長になった方は、会長さんが行っていたお店には行きたくない、ということになる。

どうしていいか分からないまま、悪循環の中で途方に暮れているうちに、売り上げがものすごく下がっていきました。店もお客さまも世代交代していく中で、このまま店を継承していけるのか……。悩み過ぎて、最後には「私にやらせたのはお母さんなんだから、私のせいじゃない」と開き直るぐらいになりました(笑)。

―― そう思わないとやっていられないですよね。

桑村:老舗とはいえ、京都の町中ではなく田舎の出で、しかも斜陽だった「和久傳」ののれんを、母はまさしく女手ひとつで再興したわけです。

大変な責任を背負う中でも、いつも天真爛漫で、周囲に気配りをして、厳しさと同時に夢とロマンを失わない母の生き方には、仕事人としてあこがれるし、女性としてもすばらしい人だと思うんです。ただ、そんな母の姿が女将の手本というならば、私にはとても真似できない。

そんな中、私なりに「室町和久傳」と、それから東京の物販と、母とはまた違う経験もずいぶんしていましたので、「京都に戻れ」ということには、抵抗感の方がずっと大きかったです。

―― そもそも家業に入るということに、抵抗を持っていらっしゃったわけですよね。

桑村:私の中では、抵抗感が複雑に重なっているんですね。

「室町和久傳」の後に、知名度のない東京で一から物販に取り組んで、それが軌道に乗ったら、私は降りるつもりでした。物販では、料理屋にいる間はできなかったことを開拓していくことで、私なりに非常に手ごたえを感じていました。母の枠組みとは違うところで、仕事の楽しさを味わえていたんですね。でもその最中に、高台寺という「本店」に女将として呼び戻された。開きかけていた自分の世界が、もう一度、母の枠組みに入ることで、閉じてしまう。しかも、本店に入ったら、もう家業からは逃げられません。

というわけで、最初は苦しいばかりでしたが、それでも3年ぐらいたったころから、その場所でしか見えないことが、だんだん見えるようになってきました。

―― どんな景色だったんですか。

桑村:このままでいたら、店はダメになる、と思いました。

―― え、意外な成り行き。

桑村:生意気に聞こえますが、母のやり方の中で、私がいちばん共感していたところは、人のやらないことに挑戦することでした。だとしたら、私も母のやり方を踏襲するだけではダメだ、と、それが分かるようになったんです。

―― どこが自分のやり方だと思われたのでしょうか。

ダブルスタンダードは料亭の宿命か?

桑村:料亭というのは、よくも悪くも、女将の采配がすべてになりがちなんです。かつてのうちも、母を中心に店のすべてが放射状に広がっていて、「綾さんがいないと、うまく回らないね」という状態になっていたわけです。

それは、それぞれのスタッフに能力があっても、何も考えず、何も判断しない集団だ、ということです。あと100年、200年、のれんをつなげていきたいと考えた時に、それでは持ちませんよね。

―― 確かにそうですが。

桑村:それと、料亭には二重の基準というものがありました。女将とは別に、料理人たちの世界があって、その中でまた別のヒエラルキーが構成されているのです。

―― 役割と命令系統が違う世界が、女性と男性で別々かつ並行に存在する。それは大変そうですね……。

桑村:別の角度から見ると、それこそが料亭文化であり、いい意味で、決してなくしてはいけない部分でもあるんです。

でも、そのためには、最初にお話ししたように、両者がうまく機能するように舵取りをしなければならない。それぞれの現場で指示する人、責任を負う人が違っていて、評価が二重構造になっている状態は変えていかなければいけない、と、かなり強い危機感を持ちました。

組織に最も重要なのは「公正」と「誠実」

―― かつて別の料亭を立て直した方のお話を聞いたことがあります。その料亭は、女将が好き嫌いで人事を決めたり、采配を変えたりしていたことで、経営がおかしくなっていたそうです。その辺りが、女性による家族的経営のあやうい点ですね。

桑村:そういうことが起こりがちな世界なんです。好き嫌いと直感力は表裏一体でもあるので、一概に悪いとは決め付けられませんが、私は会社を、「公正であること」を軸に変えていきたかったんです。公正であることは、自分の経営にとってアイデンティティのようなものです。

―― 同じ女性として、うなづける感覚です。

桑村:会社である以上、利益を出すことも大事ではあるけれど、その前に社内が誠実な集団であり続けることの方が、もっと大事だと思うんです。

桑村:それと同時に、合理性も重視せざるを得ませんでした。実際、母から料亭を受け継いだ時は、年間の売り上げと変わらないほどの借入金があったのです。

効率がすべてに優先するとは思いませんが、会社の中に二重基準があることや、経営が密室で決められていくことには、ものすごく違和感がある。料亭の経営に携わって、そういう気持ちがもう、あふれ出てきたんです。

―― それで、どうされたんですか。

桑村:運営方針が女将の胸先三寸ではなく、働く人たちがちゃんと自分で判断し、合意で決まっていくようにする。人事に関しては、それぞれの能力をきちんと見て、適材適所で配属するようにする、と、誰もが納得できる経営に変えていくべきだと、母に直訴しました。

母娘、本気でぶつかる

―― そういうやり方は、桑村さんご自身がすでに物販で実践され、手応えを得ていたものですね。

桑村:そうです。それがうまくいった時の楽しさを知っていましたし、しかもそこには数字がきちんと付いていました。私は、人事も給与体系も作り直して、従業員の異動にしても納得度の高い体制にしたいと思っていました。そのように経営を「見える」ものにすることで、働く人に責任と権限を持ってもらいたかったのです。

母にしてみれば、自分が築いた店内の人間関係などもあり、複雑な思いもあったと思います。「会社に船頭はふたりいらない」というようなことも言われて、そう簡単には行きませんでした。

―― 実の母娘は、本音で容赦なくぶつかり合うでしょう。

桑村:私たちの舌戦はすごかったですよ。私も負けずに、「私がお母さんにかなわないところがあるとしたら、私のような娘を持っていないところよ」なーんて言い返したりして。周囲の顰蹙を買っていたと思います(笑)。

―― 仕事を成功させるには、本音でぶつかることも大事ですが、女性同士だとなかなか距離や塩梅が測れません。そこは母娘ならではだったのでは。

桑村:納得してもらうまで時間はかかりましたが、最後には「分かった」と言ってくれました。その時に母は、「そんなに言うなら、やってみなさい」と、「高台寺和久傳」の代表取締役を降りたんです。そこにも、自分が真似できない懐の深さを感じました。

―― 桑村さんは女将と同時に「社長」になった。

桑村:その時に、自分と和久傳の関係や、のれんのあり方について、またすごく考えました。これも私の性格で、自問自答を繰り返すタイプなんです(笑)。

総合力の勝負で、上下関係より有効なもの

―― どんな自問だったのでしょうか。

桑村:料理屋というのは、人さまの口の中に入れていただくものを提供するところです。おいでになったお客さまのお顔が、お料理を召し上がったことで、いい笑顔になる。その様子をライブで見られることが私たちの喜びですが、一方で、万が一、場合によっては命を預かることにもなる。その重みと責任を感じた時、理念が絶対に必要だと思いました。

―― 桑村さんの理念は何だったのでしょうか。

桑村:料亭文化というものは、建物、庭、空間から、掛け軸まで、すべてを支えてくれている職人さんたちがいないと成り立ちません。そこにはもちろん料理人がいて、器を作る人もいる。また、お給仕を担う人もいる。それぞれの経験の中で培われたものが、ありとあらゆるところを支えているんです。

そういった「総合力」が勝負の業態は、お客さまがお料理をお褒めくださっても、誰かひとりが偉かったから、ということではないわけです。料理を作った人、それをお客さまに運んでお給仕した人、それから、お座敷をきれいに掃除して整えた人がいて、それぞれに上下はない。誠意と誠実さをチームの一人ひとりが学び続けていく姿勢がないと信用は付かない。そのことをやっぱりすごく考えました。

―― 空間のよさがあり、素材のよさがあり、調理のよさがあり、そして給仕の心地よさがあり、と。

桑村:そこはお客さまのお好みで、きっちりとした上下関係で統制がとれた板場のよさというものも確かにあるのですが、「今度の料理長はいいね」みたいな褒められ方をしたり、されたりするのは、わりと男性的な上下関係の感覚ですよね。

―― ボスが偉いんだ、みたいな。

桑村:そうそう。私自身は、店への貢献は料理人の技能や技術だけではなく、さまざまな種類があると思っていましたし、そう考える中で、男性も女性も互いに能力を認め合って、いい店にしていくべきだな、と。

当然、お商売として成り立たせねばなりませんが、その両立を考えた時にいちばん大事なのは、組織運営や命令系統だけではなく、スタッフ一人ひとりが目の前の問題を判断する時に、「どう美しくあるか」を基準にすることでした。

―― 「美しくある」。抽象的ですね。あと、現在進行形です。

あえてゴールを目指さない

桑村:もちろん見た目の美しさや、飾った美しさではありません。一番の美しさは「どう誠実な集団であり続けるか」という姿勢だと考えています。現在進行形ではありますが、私の中では、この姿勢そのものを理念にしようと思いました。

例えば、何かの権威に認められるとか、グルメガイドに載るとか、そういうことが目的になってしまった時に、消えてしまうものがありますよね。外から認められることは大切なことだと思うんですよ、すごく。ですけど、それを目的にしてしまうことで、自分たちの誇りを満足させてはいけないと思っています。

逆に、お急ぎのお客さまのためにお茶をお出ししようとして、2メートルの通路も走ってしまう。そんな行為は、傍から見ると慌てた姿に映るかもしれませんが、私にとっては美しいものなんです。お客さまに対して自然と湧き出る敬意を持って、一生懸命にお給仕をする。驕りがあると、ものごとが見えなくなりますので、謙虚な気持ちを忘れない。そういうことが、私の考える「美しさ」でした。

―― とはいっても、売り上げはほしいし、その次は名誉がほしい、となりがちだと思うのですが。

桑村:それも分かりますが、ただ、やはりその発想は男性のものという感じがするんですね。売り上げとか権威付けを意識することは、ゴールが決まっていて、それに向かって進んでいくことですよね。

でも、「どう美しくあるか」ということに焦点を合わせると、ゴールは消えて、常に追求するという姿勢が大事になります。常に原点に立ち返ることが大切であると考えたわけです。

―― 戦後の高度経済成長期は、ゴールを設定することが推進力でしたが、世紀も変わって低成長時代に移ると、「持続可能性」という原理がクローズアップされるようになりました。桑村さんのお考えは、まさしく後者ですよね。

桑村:そういう意味では、世の中の便利さや効率を上げることに関して積極的でないかもしれませんし、極端な言い方をすると、お客さまの快適さとか効率とかに合わせたりもしていないのかもしれません。

―― その代わりに桑村さんが大事にしていることはありますか。

和久傳に行ったら、お湯呑にも注目を

桑村:小さなことなんですが、例えばお茶のお代わりを途切れなくお出しする、ということに気を配ったりとか。

―― 取材中、そのお茶の温度が熱くもなく、冷めてもいないことに、ひそかに感心していました。さらに、お代わりの度にお湯呑が違うことに感動していました。

桑村:実はそこは、スタッフに繰り返し言っているところなんです。先にお出ししたお茶が冷め切らないタイミングで、なるべく心地よい温度で淹れたお茶にお差し替えする。器の好きな方もおられますから、お湯呑も違うものに変えていきましょう、と。

―― あと、お給仕の方の温かい笑顔と声かけがうれしかったです。楽しんでお仕事をしていらっしゃるんだな、と思えました。

桑村:優しさや思いやりを持って、お客さまをおもてなしすることも、大切にしています。ただそれらは、商売のためというよりは、人として当たり前のことですよね。ですから私が「お客さまには合わせません」と言うのは、これをすると売れるからとか、これが流行っているからうちも真似する、という方向には行かないようにしたい、ということなんですね。

うちのようなやり方ですと、規模を大きく広げていくことはできませんが、会社の幹の部分を太くしていくことはできるんです。

―― 規模は大きくないと言われましたが、御社は京都市内にそれぞれ業態の違う料理店を4店お持ちです。おもたせの店も加えると、京都を中心に、東京、名古屋の一等地に多彩な展開を行い、のれんを保ちながら、それぞれの立地によって業態を微妙に変えている。そのブランディングの妙は、他に類を見ないところです。

桑村:それをデザインしたのが母だったわけです。経験がないうちは、母が描く経営のグランドデザインの中で、私が必死に中身を実現させていく、という動き方でした。というか、それしかできなかった。

―― そこから試行錯誤して、桑村さんなりのやり方を見つけていかれた。

支えにもなり、しんどさにもなり

桑村:「やりたくてやっているんじゃない」という気持ちがあったからこそ、「どうしたら、楽しくやれるだろう」と考え続けました。ちょっとひねくれていますよね。

―― でも、桑村さんご自身もグランドデザインを描く能力を、着々と発揮されてきた。

桑村:最近になって思うのですが、私にも、そういった力があったんだな、と(笑)。

―― やっぱり(笑)。

桑村:世の中にはすごいお料理屋さんがたくさんあります。とりわけ私たち母娘は丹後から、料亭文化の中心である京都に出てきたというアウエー組で、その中で、ほかにないものをやろうという思いは、一貫して母と共有してきたと思います。ただ、私のやり方は母のやり方とはまた違ったので、しんどい時間が長かったことも確かでした。