「夢を叶えるなら、その10倍は苦労しないと」 ②

女性雇用「夢を叶えるなら、その10倍は苦労しないと」 ②

―― 昨晩、夜に「高台寺和久傳」の様子を拝見しました。打ち水がされた玄関と、磨きぬかれた廊下。お庭を眺めながら座敷に通されると、ほんのりとした照明の中に、障子や畳の美しさが浮かび上がって、まさしく谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の世界。昭和の名工による数寄屋の空間を堪能しました。

桑村:料亭というものは、建物だけでなく、掛け軸ひとつを取っても、先人が重ねた努力の上に培われた、時代と文化の集積なんですね。お料理にしても、若い時からコツコツと研鑽を積んだ人たちが、長年にわたって伝え続けてきたものです。料亭の空間はすべてがあつらえたもので、出来合いのもの、よそからちょっと買ってきたもの、というものがないんですね。

―― そして今、一晩明けた朝の「高台寺和久傳」にうかがっております。真っ先に目に入ったのは、従業員のみなさんが一所懸命にお掃除をしている姿。日本家屋だからでしょうか、風の通りもよく、朝の時間は清々しい気に満ちています。

桑村:この建物がもともと持っている力というものがあって、それを最大限に生かすには、やっぱりお掃除が大切なんです。庭の木は葉っぱの一枚一枚を拭きますし、苔の間にあるゴミの一つひとつも、ピンセットでつまんで取ります。お座敷も廊下も掃き清めて、埃ひとつ落ちていないよう努めます。

―― お座布団の飾りの房も揃っている。

桑村:そうなんです。私はその房の角度が乱れているのも嫌いで(笑)。

―― その空間の中ですごく緊張するかと思いきや、夜も朝も、とても心地よくなごむことができます。というのは、お給仕の方がみな、温かい笑顔で接してくださるので。

「温かきは万能なり」

桑村:そう言っていただけるとうれしいです。建物の緊張感と、それをほぐす温かみと、洗練されたところと、野趣をとり入れたところとのバランスが大事、といつも思っています。すべてが調和して、やすらげる空間を作りたいと思っています。

たかが料理屋、されど料理屋、と言いましょうか、私たちはお給仕に徹する立場です。だからこそわきまえて、卑下するのではなく、誇りを持って仕事をすることを大切にしています。あるお客さまにいただいた言葉ですが、「温かきは万能なり」という言葉が、私の指針にもなっています。ものごとを突き詰めても、そこに温かみがなければ、無きに等しいと思うからです。

―― じーんと来たところで、前回の続きのお話をうかがっていきたいのですが、禅寺での住み込み修行の後、家業に入られた桑村さんが、最初に手がけたのは、「室町和久傳」という2号店のプロジェクトでした。

桑村:室町通りにあるビルの地下に2号店を出しましょう、という話になったのはいいのですが、そのころの室町は織物の問屋さんが並ぶだけで、夜は犬一匹も歩いていないようなビル街でした。でも私は、だからこそやる意味がある、と思ったんです。

とはいえ、それまでは学校の中とお寺の裏方しか知らない、まったくの世間知らず。負けん気は強くても、商売のイロハも分からないものですから、そういう立地は集客に苦労する、という基本的なことも後で気付いて落ち込むという始末でした。

―― 「室町和久傳」は、「高台寺和久傳」とはまた違って、京町家を改装した、料亭よりも入りやすい業態です。

桑村:現在の店は、2006年に堺町の町家に移転し、茶寮も物販も併設したものですが、室町にあった当初は席数25の小ぶりな店でした。その時から、高台寺の店のよさは残しながら、それまでの和久傳になかった店を作らねばと、必死にもがいていました。

桑村:料亭は建物、料理、給仕すべてを総合的に楽しんでいただくことで、高い対価をいただく。それを実現するために、高台寺では日本海産の蟹を炉辺でお焼きするという、和久傳ならではの名物を作りました。

逆に室町では、本店の名物に頼ることはやめて、料理の発想と親しみやすい接客で勝負しようと考えました。

―― 2号店でも、いわゆる「セカンドライン」ではない、と。

桑村:そのあたりが私の反骨精神なのですが、同じことを、ちょっと単価を落としてやっても面白くない、と。料理長と一緒に、新しい食材と伝統的な調理の組み合わせを、いろいろ考えました。たとえば山椒の花のしゃぶしゃぶ、りんごの巻き寿司、松茸を鱧(ハモ)で巻いた焼き物など。

―― 食べたこともない組み合わせですが、聞くからにおいしそうです。

桑村:小さいころに田舎で食べていたものも、案外ヒントになりました。

日本で栽培が始まったばかりの南米産のお芋、などという食材もいち早く見つけて、どんな料理の仕方がいいかな、と試行錯誤しました。食材と料理の組み合わせが面白くても、おいしくなければ奇抜なだけなので、料理長に負けない舌をもたなくてはと勉強の日々でした。

室町のような町中の店では、料亭のような単価ではお客さまに足を運んでいただけません。となると、どこにコストをかけ、どこを引き締めていくか、そのバランスも課題になります。

―― 客単価はどのように設定したのですか。

桑村:当初はお昼のコースが5000円、8000円、1万円で、夜のコースが1万2000円、1万5000円、1万8000円でした。

―― 料亭のようにものすごく高くないけれど、高級であることは間違いありません。

桑村:ビジネス街にあって、あらたまった商談ができるように、という気持ちでしたが、実際は、銀行から借り入れた資金と、席数から逆算して出した数字でした。

―― 借金の返済は順調だったんですか。

頭を下げて、育ててもらう

桑村:おかげさまで、当初は10年で返済計画を組んでいたところ、8年で借金を返すことができました。

―― すごいじゃないですか。

桑村:いえ、ただただ、出ていく数字と、入ってくる数字が違わないように心がけただけなんです。ただし、そのために、それこそ朝から晩まで、死ぬほど働きました。店内の3メートルの通路も、走っていました(笑)。

お客さま商売ですから、いろいろと“事件”もありましたよ。信用していた人に売り上げを持ち逃げされたり、料理長がたびたび変わったり、お客さまから多くの苦言をいただいたり……。

―― 理不尽な状況や苦情などは、会社勤めをしていても、常に遭遇することです。そういう時は、どうやって乗り越えていくのですか。

桑村:人に不正をされるということは、自分にも油断があった、ということですよね。苦言については、腑に落ちるものならありがたいんです。でも、ときどき腑に落ちない苦情があります。むしろその時ほど、ひたすら誠実にお応えしていくよう心がけました。

―― そういう誠実さは、どうやったら保てるのですか。

桑村:なかなかうまく保てるものではありませんが(笑)、お客さま商売を続ける中で、ひとつ分かったのは、何か欲が出ると迷ってダメになってしまう、ということでした。「あれをしたい」「これをしたい」と思うと、それが伝わらない時に、「何で分かってくれないのだろうか」と、相手を責める気が起きてしまう。そうではなく、いったん自分をゼロにして、謙虚に頭を下げ続けることで、自分と店は予想を超えて成長していくことができる。お客さまが、そのように育ててくださるのです。ちょっと逆説的ですが、それを実感しました。

―― 桑村さんはバブル世代の最初ですが、とてもそうとは思えません。

桑村:やりたいことを実現するには、その10倍は苦労しないとだめだろう、という感覚を祖母から教えられたように思います。不利な立地のスタートでしたが、だからこそ自分を追い込むことができたのかもしれません。

それは、戦後、丹後の地でがんばっていた両親や祖母の姿を見ていたからでしょうね。祖母は戦争で夫、つまり私の祖父を亡くしていて、女手で母を育て上げ、後には忙しい母に代わって私を育ててくれました。その記憶が戦後生まれの自分の中にも、ずっと生きているのだと思います。

―― 97年には室町に続いて3番目の店となる「京都和久傳」を、JR京都駅ビルの11階に出店されます。この駅ビルはポストモダン建築の巨大な駅舎が、よくも悪くも大変な話題になりました。

桑村:出店は社長だった母、桑村綾の決断でした。古い京都を好きな方は、新しい駅舎に反発もされましたが、母は「この機会を逃したら、21世紀に後れを取ってしまう」と積極的でした。そのあたりの直感と判断力は、自分の母ながら、かなわないと思うところです。

―― 「京都和久傳」は、オープンキッチン形式の店で和のコース料理を出す。価格帯も2700円からで、高台寺の10分の1と、ぐっと入りやすいお店にされました。

桑村:高台寺、室町、京都と、それぞれタイプの違うお店を出すことができ、「和久傳はいつも何か新しいことをやってくれるね」というような評価も多少いただくようになりました。その中で母がお弁当やお菓子など「おもたせ」も始めるようになり、それも、おかげさまで評判になっていったんです。

―― 今も和久傳の名物になっている「陶筥(とうばこ)弁当」や、お菓子の「西湖(せいこ)」ですね。

「実は、ここで退くつもりでした」

桑村:「陶筥弁当」は、母の発案で使い捨てではない陶器を用いました。お弁当を召し上がられた後も、器として再利用していただいて、再利用も終わったら、割って土に戻してください、というリサイクルの意味を込めたものでした。

「西湖」は、はじめは、その陶筥弁当に入れていた小さな和菓子だったんです。ハスの粉を和三盆と一緒に練ったお菓子で、料理長のオリジナルです。ある時、母と一緒に、そのお菓子を食べてみたら、あまりにおいしいのでびっくり。「お弁当の一部だけでは惜しい」と、和久傳の和菓子ということで売り出してみたところ、大変な評判になりました。

―― 「和久傳」の名前が東京にも聞こえるようになったのは、この「西湖」がきっかけだったと記憶しています。

桑村:ただ「西湖」が評判になっても、私たちには販路がないことがネックでした。そこで、2003年に料理屋の会社である「高台寺和久傳」とは別に、おもたせを担う「紫野和久傳」を母が設立しました。その時に東京で4店舗を出店することになり、「とりあえずなんとかしてきて」という“指令”が私に来たんです。

―― 東京・丸の内の路面店と、新宿伊勢丹、松屋銀座、玉川高島屋の4店ですね。

桑村:はい。室町のお店を担当して、ちょうど10年がたったところでした。

―― 店舗から物販へとは、すんなりと意識転換できたのですか。

桑村:いえいえ、私は室町の店を軌道に乗せた時点で、家業から身を引く気が満々でした。

―― え、そうだったんですか。

桑村:そこに至っても、家業とか和久傳ののれんを継ぐ、という気は少しも湧かず、結婚してサザエさんのような家庭を築くことを目指していました。

―― なのに、そう運ばなかったのは?

桑村:お弁当や「西湖」が売れる、ということを目の当たりにしながら、販路開拓が十分でなかったことに、口惜しさを感じていたからです。その突破口ができたのだから、ここはもうひとつ、がんばってみよう、という気持ちになりまして。

―― 丸の内に路面店を出されたのは、丸の内が再開発で大きな変貌を遂げている最中でした。ただし、その立地は仲通りではなくて、仲通りのエルメスの店舗を折れた隣。表通りでもなく、裏路地でもない。メジャー感と、知る人ぞ知る感のバランスが絶妙な立地でした。

桑村:そのあたりに母の感覚の鋭さがあるんです。当初は丸の内ビルに料理屋として出店の要請をいただいたのですが、これからは料理屋ではなく、おもたせの店を展開していくという方向性が、まずブレなかった。

店舗を出すにしても、「うちの存在感は表通りではない」と。かといって、裏路地ではないんです。そのバランスをどのように取るかが、のれんのイメージを決めていくわけですが、そういった経営のデザイン力というものが母にはあるんですね。

―― まさしく「ブランディング」です。

桑村:母が描くデザインの中で、私は丸の内店をはじめとする店舗の中身をさらにデザインしていったのですが、実際に物販に取り組んでみたら難しい分、そちらが面白くて、面白くて、やめられなくなりました。

―― そうだったんですね。

料理屋のおもてなしと、店頭との違い

桑村:と言いますのは、物販には料理屋の方程式ではできないことばかりだったからです。

「新しいことに挑戦する」という点ではどちらも共通しているのですが、お客さまをお迎えして、一所懸命お給仕して、という料理屋のおもてなしと、店頭で商品を売ることはまったく違いますよね。

―― それは違いますね。

桑村:料理屋でお出しする料理は、板前の包丁が勝負です。

―― リアルタイムの技の勝負。

桑村:料理屋では女将の存在があって、その号令の下でいろいろなことが決まっていきますが、店舗は店先に女将がいるからといって、売り上げが上がるわけではないですよね。

何を、どんなタイミングで、いくつ作るか。そうやって作った商品を、どのようにお客さまにお知らせして、買っていただくか。買っていただいた後も、よりおいしく召し上がっていただくには、どうしたらいいか。そんなことを、どうしたら売れ残りが少なくなるかと同時に考えていかなければならなくて。

―― 桑村さんはどのように整理したのですか。

桑村:考えるべきことは、あり余るほどありました。私はまず、「売れるものを売る」のではなく、「いいと思うものを作る」ように考えました。商品は料亭の名前に頼らないで、その品だけでお客さまに満足いただけるものにしたかったのです。

そのためには、店頭で人がいきいきと働いていることが大事だとも思いました。物販のチームには、「料亭チームに負けないぞ」という気概を持ってもらいたいと考えて、料理屋とは違う新しい価値を作るために一致団結しようと呼びかけました。そのために「私たちは3つの言葉を、おまじないのように大切にしていきましょう」とスタッフに言いました。

―― 3つとは?

桑村:「はい、分かりました」「ありがとうございます」「ごめんなさい」の3つです。

―― なるほど。

桑村:これはお寺で修行をしていた時からの習慣で、「室町和久傳」でも実践していたことなのですが、誰かが何かに気付いて、相手に伝えようとした時、その相手が分かったか、分からなかったかはとても大事ですよね。そういうコミュニケーションを、スタッフの間できちんとやっていくことが、すごく大事だよね、ということと、それともうひとつ、とにかくお掃除をきちんとやっていきましょう、と。これもお寺にいた時からの習慣ですね。

―― 「掃除の効用」は、昨今のビジネス書でも定番のテーマになっています。

桑村:掃除をすると、確かに数字が上がる気がします。

―― 本当ですか。

桑村:はい、確かに(笑)。みんなで自分たちのいる空間をきれいにすると、すがすがしい一体感が生まれるんです。お寺と同じように、お掃除の後は、みんなで一服のお茶をいただくようにしましたが、それも含めて、自分たちのよりどころである「美しさの基準」を体感していけるんです。

スタッフには「お掃除をする時は、人の目を気にしないように」とも言いました。うちのような店に限らず、店舗のショーケースって近づき難いものなのですが、たとえば店員がしゃがんでショーケースを拭いていたりすると、お客さまは声をかけやすくなるんです。掃除には、いろいろな効用がありますね。

あと、物販では「東京店長会」というミーティングの機会を新しく設け、4店舗の店長たちと一緒に目標を作って、みんなで取り組みました。

―― 女将の号令で動く料理屋の世界は、「縦の関係」で動いていますが、桑村さんはここで「横の関係」を築こうとされたんですね。

「みんなが納得して決めたこと」を実行すれば、成果が出る

桑村:チームで作って売って、と働いていくには、横の関係が大切でした。

もちろんお客さまに買っていただくことが、どれほど難しいかは、身をもって体験するのですが、物販は4店舗とも、予想以上の勢いで売り上げが伸びていったんです。みんなで決めたことを、みんなで実行すれば変化が起こる。そして成果に結び付いていく。仕組みを作ることと、生かすことが、ものすごく面白くなりました。

―― そのころ、室町のお店はどうされていたんですか。

桑村:母が多少の面倒は見ていたかもしれませんが、それ以上に、私と一緒に立ち上げから苦労を共にしてくれたスタッフが育っていて、そのスタッフたちが守ってくれていました。その時の料理長が今、料亭グループの総料理長を務めています。

―― 桑村さんは、育成の手腕もお持ちだったんですね。

桑村:いえ、私の手腕とかではなく、スタッフも私がいなくなったことで切羽詰まったからだと思います。でも、信頼してまかせれば、人は力を発揮してくれるんだなあ、とつくづく感じました。

―― 責任と権限を一緒に与える……両者は不可分なんですね。

桑村:それで東京での仕事が楽しくて、楽しくてしょうがない時に、今度は母から、「京都へ戻ってきて、『高台寺和久傳』の女将をしなさい」という“指令”が来るんです。

―― そろそろ京都に戻りたかった?

桑村:いえいえ、東京での面白さが計り知れないほどでしたから、正直、戻りたいなんて思ってもいませんでした。