「サザエさん」に憧れた女子、禅寺を経て女将に ①

女性雇用「サザエさん」に憧れた女子、禅寺を経て女将に ①

日本が誇る「料亭文化」。そこには、伝統にもとづく「おもてなし」の心と、斬新なイノベーションのふたつが共存しています。その中でも、京都・高台寺の高級料亭を中心に、多彩な業態を展開中の「和久傳」は、独自のブランディングで群を抜いた存在です。

料亭とは「女将」を中心に、女性が作りあげるフレームの中で、男性が存分に腕をふるう場所でもあります。一見、通常の企業社会とは、かけ離れた世界に思えますが、女性力の活用をはじめ、次につながる経営や働き方の例がたくさん。それらのヒントを、凛とした女将の話から見つけてみませんか。

桑村 祐子(くわむら・ゆうこ)「高台寺和久傳」女将/代表取締役
1964年京都府生まれ。87年、ノートルダム女子大学英語英文学科卒業。大徳寺の塔頭で住み込み修業を経た後、89年に家業の「高台寺和久傳」に入る。2号店の「室町和久傳」の立ち上げを担当し、軌道に乗せる。2003年、創業者の母、桑村綾が設立した物販の別会社「紫野和久傳」の取締役に就任。07年、母の後を継いで、「高台寺和久傳」代表取締役に就任。(写真:樋口とし、以下同)

―― 北政所ゆかりの高台寺や、隠れ家のような店が並ぶ石塀小路、そして八坂神社があり、神社の石段を下ると祇園が広がっている。京都の中にあっても、とりわけ京都らしい華やぎが香る一画に、料亭「高台寺和久傳」はあります。それにしても、こちらの建物はすばらしいですね。

桑村:もとは昭和27年(1952年)に、数寄屋建築の名工、中村外二棟梁の手で建てられた日本家屋です。以前は日本舞踊の尾上流の家元のお住まいでした。ご縁があって1982年にお譲りいただくことができ、私の母が料亭を開いたのが、「高台寺和久傳」の始まりです。

―― 京都の歴史的な旧市街地でも、街並みの観光地化、商業化が年々進んでいますが、この建物は門から、玄関から、庭から、隅々にいたるまで、日本建築が持つ簡素で清潔な美しさが行き届いています。

桑村:そう言っていただけると、うれしいです。

―― 由緒ある日本家屋、料亭、和服の女将……と来たら、それこそ「伝統」とか「しきたり」とかに続けたいところですが、今回、桑村さんからうかがいたいのは、今の時代の「ブランディング」。しょっぱなからカタカナ言葉ですみません。

桑村:いえいえ。

―― ブランディングの次には、「イノベーション」や「プロジェクトマネージメント」をうかがっていきたくて、どんどん「はんなり」から遠ざかってしまうのですが。

桑村:いえ、おっしゃっていただいたように「日本ならではの美しさ」と同時に、お商売も成り立たせねばなりませんので、私どもにとっても大事なお話だと思っています。

―― ありがとうございます。というのは、「和久傳」のブランドが、近年ではほかにない独自の発展を続けているからです。

82年に「高台寺和久傳」を開かれた後、「室町和久傳」、「京都和久傳」、「紫野和久傳」とそれぞれの立地によって業態を変えた料理店を出店する一方で、「おもたせ」中心の物販で東京にも進出。現在は京都、東京、名古屋の一等地に10数店を出店しています。

高級料亭のイメージとクオリティを保ちながら、多店舗展開を成功させている「和久傳」ブランドの、その存在感の源に迫りたいと思いまして。

桑村:私たちは、そんな大層なことをしている思いはないので、うまくお話しできるか心配ですが。

―― いえいえ……ということで、さっそくうかがっていきますが、「和久傳」は京都で代々続く老舗、というイメージがありましたが、市内でのスタートは82年だったんですね。

もともとは母が始めた“大勝負”

桑村:もとは同じ京都府の丹後の地で明治3年(1870年)に創業した料理旅館だったんです。創業者の名前が「湧屋傳右衛門」で、「湧」に平和の「和」と、傳右衛門の妻だった「久」の名前をあてて、「和久傳」という屋号になりました。

明治から昭和の中ごろまでの丹後は、名産の丹後ちりめんで非常に栄えて、商社の支店もたくさんあったそうです。そんな土地の料亭に母が嫁いで、女将として切り盛りをするようになったのですが、そのころからちりめん産業は斜陽化が進んで、商社の支店も丹後からどんどん撤退するようになっていったといいます。

―― 化学繊維が急激に普及して、昔ながらの絹織物の産業が衰退した時代ですね。

桑村:旅館の経営もジリ貧に陥って、やがて赤字が続くようになりました。このままでは従業員も家族も一緒につぶれてしまう、ということで、母が一念発起して、京都市内に料亭を出そうということになったんです。

―― 桑村さんのお母さま、桑村綾さん(「紫野和久傳」代表取締役)ですね。同じ京都府とはいえ丹後からということは、いわばよそ者として、ど真ん中に打って出た、ということですよね。

桑村:それだけ旅館の経営が切羽詰まっていたんですね。銀行から大きな借金をして、京都という激戦地に出るしか、のれんを守る手がなかった。当時の女性として、本当に覚悟がいることだったと思います。

―― 勝負の地として選ばれたのは、周囲に京料理の名店がひしめくエリアです。

桑村:もちろん温かく歓迎されるわけがありません。また、都会的な京料理で真っ向から勝負したら、かなうわけもありません。ですので、高台寺の店では田舎ならではのよさを味わっていただけるよう、素材を大事にした料理で行きました。その象徴が日本海で獲れる「蟹」です。店には、料亭らしからぬ囲炉裏を切った部屋を作り、そこで「蟹」を焼くというスタイルを、ひとつの名物にしました。

―― 細工の細やかさを競う京料理とは、少し違うところを目指した。

桑村:田舎ならではの野趣と、京都の町中にある数寄屋作りの洗練された空間を調和させて、お客さまを開拓していった。誰もやったことのないことをするところが、母のすごいところだと思います。

―― その綾さんのひとり娘として生まれたのが桑村さんです。

桑村:母が高台寺に店を開いた時に、私も大学進学のために丹後から京都に移りました。それまではずっと丹後で、都会の生活に対して免疫はおろか、あこがれる感覚すらなく、今のように情報もなかったので、カルチャーショックを受けました。

―― 80年代前半の京都の女子大生なら、さぞ華やかな学生生活が待っていたことでしょう。

桑村:女性は24歳までに、できるだけいい条件の相手を見つけて結婚する、ということが言われていた時代で、学生のうちからお見合いをするような友人も多くいました。

―― 「クリスマスケーキ説」が幅をきかせていました。そういう風潮に影響は受けましたか?

時給半額で、実家で働く

桑村:いえいえ、これが同じ京都かと、私はただびっくりしているだけでした。丹後は交通が発達した今でも、京都から2時間半もかかるところで、日本の秘境なんて言われているんです。そういうところで日本海を見て育ったせいか、私はどこか内向的な部分があって、都会的な人の輪には、なかなか入れなかったですね。

それに、授業が終わったら、店の手伝いがあるでしょう。だから、遊ぶ時間もそうそうあるはずもなく。

―― 当時は、女子大生をすごくチヤホヤしていた時代で、そのころの話とは思えません。

桑村:丹後のような土地では、商売をやっている家や農家は、家族が家業を手伝うことが当たり前なんです。うちでは、「ここで働いてくれる人たちがいるからこそ、学校にも行かせてもらえる」ということで、家族を従業員より優遇することも、決してありませんでした。実際、家でも職場でも、いちばん働くのが母で、次に娘の私です。

そうじゃないと人は動いてくれませんし、それ以前に、働いてくださっている人に申し訳ない。私にしてみれば、「働く」というよりも、「教えていただく」という感覚です。私の時給も半額で、大学の学費も、その中から出していたんですよ。

―― 半分の時給の中から……商家の流儀に、びっくりです。卒業する時に、就職しようとは考えませんでしたか。当時の流行のように、いいとこのOLになって、そこで結婚相手も見つけよう、とか。

桑村:どこで何をしていても、和久傳の娘であるという状況が付いて回ります。そことは無縁の場所を探していましたが、9時~5時で仕事をする世界から、あまりにもかけ離れたところにいたので、就職は発想すらしなかったんでしょうね。

―― ということは、学生時代から料亭の跡を継ぐ道が見えていた、と。就活に四苦八苦する今の学生にとっては、うらやましい状況かもしれません。

桑村:もともと父が和久傳の跡取りだったわけですが、旅館というのは男性の存在が表に現れてきません。ものごころがついた時から、母は女将の仕事で忙しく、私は祖母に育てられながら、母の後ろ姿を見ていました。

母は人間として、女将として、そして女性として、最大限に自分を活かして生きている人で、そんな人の跡をいずれ私が継がなくちゃいけなくなる……と考えると、心が萎縮してしまっていました。

―― 「継ぐだろう」ではなくて、「継がなくちゃいけない」。葛藤があったんですね。

桑村:私は子どものころから、サザエさんの一家に、すごくあこがれていたんです。波平さんがいて、フネさんがいて、サザエさんが一家を明るくしていて、その旦那さんはサラリーマンで。自分が育った環境とはまったく違う家族の姿ですよね。

悩んだ末、お寺での修行に臨む

桑村:母はまぶしい存在でしたが、自分はとてもああはなれない。もっと言えば、旅館とか料亭とか、いわゆる水商売を自分がやることにも、前向きになれなくて。小さいころから、お酒を飲んで酔っ払う大人を見ていたせいか、心の奥に拒否反応があったんです。

―― いろいろな思いをお持ちだったんですね。

桑村:若い時にありがちですが、だからなのか諦観のような気持ちをいつも抱いていて、キリスト教の大学に行きながら、仏教的な考え方に強く惹かれていましたね。

―― 無常観ですか。

桑村:そうかもしれませんね。時の変化にさらされない何かがあるはずだと、それを追い求める感じでしょうか。

今になって思えば、就職して社会経験をすることも選択肢としてあったはずですが、当時の私は「人と同じことをしていたら、自分を鍛えられないだろう」、という危機感にさいなまされていたこともあって、卒業後はお寺で修行をさせていただくことに決めたんです。

―― お寺で修行。桑村さんはストイックですね。

桑村:お寺はすごく厳しいところで、和久傳とは無縁の場所。そこなら、ちょっとは自分を鍛えられるかな、と。

―― 体育会の運動部に入る、などということは考えなかったですか。

桑村:あ、それはもう料亭の中が、上下関係といい、礼儀の厳しさといい、体育会のようなものでしたから(笑)。

―― 修行されたお寺はどちらだったのでしょうか。

桑村:大徳寺の塔頭のひとつで、一般公開はしていない禅寺です。

―― どうしてそこにご縁が?

桑村:何かのお使いで、裏口からたずねる機会があったんですね。で、中に足を踏み入れ、先代の和尚さまにお目にかかった瞬間に、「ここにしかない」と直感したんです。

まるで月の光のような、凛とした空気に打たれた、とでも言いましょうか。建物もお庭も、そこにいる人も、すべてが生かされていると思ったのです。和尚さまに「門前の居候として置いてください」と頼み込みました。

―― すぐ受け入れられたんですか。

桑村:禅寺での修行、というのは通常は雲水さんの世界の話ですから、在家の者が興味本位で門をくぐるのは不遜なことです。お寺のことを考えたら、断られるのが当然でしたが、私があまりに切羽詰まっていたからでしょう。和尚さまが「両親を説得できたら置いてもいい」と言ってくださり、そのようにしました。まあ、人助けのおつもりで、受け入れてくださったことと思います。

―― 禅寺の修行って、にわかに想像がつかないのですが、どういうものなのでしょうか?

桑村:修行というとおこがましいのですが、お掃除に始まって、お掃除に終わるという感じでした。

早朝に起きたら、朝ごはんをいただく前に、井戸水を汲んで、拭き掃除、掃き掃除をします。8時の「茶礼」でお抹茶を一服立てて、「今日もよろしくお願いします」と、みなさんにご挨拶をするのですが、それまでは言葉を交わしあうことはありません。

お寺は自給自足で、敷地内に畑がありました。朝ごはんの後は、そこでの畑仕事や、和尚さま用に墨を摺るなど、お寺内の仕事をします。

使える言葉は3つだけ。そこに気持ちを込める

桑村:お寺の中では、言葉を削ぎ落として暮らしていました。「はい」「ありがとうございます」「ごめんなさい」という3つだけで、そこに言外の気持ちを伝えていく。そのことは、心を鎮めるために、また作務を進めていくことにも、非常にいいことだと思いました。

午後3時にもう一度、「茶礼」の時間があり、そこでみんなが顔を合わせて、互いの作務を確認しあいます。そうやって、一日のリズムを作るのが、「茶礼」の時間でした。

ひたすら同じことを繰り返しながら、毎日は過ぎていきましたが、誰にでもできる簡単なことを、ただ単純に、真剣にするだけで、一汁一菜をいただける。なんてありがたいんだろう、と思う日々でした。

―― そんな桑村さんが「現世」に戻られたのは、何がきっかけだったのですか。

桑村:修行に出て2年ほどたった時に、和久傳が高台寺に続く2号店を京都市内に出店するということで、ある時、母と話すことがあったんですね。

母はお寺に入ったきり、戻ってこない娘にやきもきしていたと思います。「こういう話があるんやけど……」と持ちかけられた私は、「その手には乗りません」と、生意気に答えたんです。そうしたら、「そうやな、あんたには無理やなあ」とあっさり言われて、逆に火が付きまして。今から思うと、母の手に乗ってしまったのかもしれません(笑)。

―― そこから「室町和久傳」の開店、経営に携わることになったんですね。

桑村:2代目として、という意識はまったくありませんでした。銀行の交渉も自分で行い、開業資金は私の名義で借り入れました。25歳で1億5000万円以上の借金を背負ったわけです。人生で初めての「背水の陣」でした。