総合不要社員に引導を渡すことができない人事部の罪
ここ数回、日本企業に勤務する社員が「学歴病」になっていく構造を、社内の人事や仕組みという観点から見てきた。今回は、なぜ会社は人事評価や処遇などに関する本音や事実を社員に伝えないのかについて問題提起し、その背景を探りたい。
筆者の問題意識の1つは、人事評価や処遇などの詳細が本人に正確には伝えられないことが、自分を過大評価し、勘違いした社員を大量に生み出す大きな理由になっているのではないか、ということだ。こうした構造の中では、社外・社内の労働市場でまともな評価を受けていないのに、都合のいいように現実を歪曲し、甘えの空間の中で甘い蜜を吸う人も多数現れる。
会社が、結果としてそんな社員を増やしてしまうのは、人事評価や処遇などに関する本音や事実を「言えない理由」があるからなのだ。その理由は、就職や転職、キャリア形成などの面で高い意識を持つ多くの人を苦しめることにもなる。
「俺たちは学生を雇ってやっている。
余計なことを言うんじゃねぇ」
2007年のことだから、10年ほど前になる。筆者は、このとき存在を知った慶應義塾大学のある学生について、「彼は今何をしているのだろう」と思い起こすことがある。
当時筆者は、人事労務の雑誌で、新卒の採用戦線を取材していた。中堅・大企業の人事部では、新卒の採用チームを人事部内に設けることが多い。そうしたチームには、人事部員が数人、他部署などから数人が加わるパターンが目立つ。十数年来の知人がいる金融機関(正社員数5000人)から了解をもらい、数ヵ月の間に5~10回は人事部に足を運んだ。
この金融機関の人事部は、就職戦線の後半に90人前後の学生に内定を出した。数日後、慶應義塾大学の男子学生から、チームの担当者に電話が入った。学生は「なぜ、不採用となったのかを教えてほしい」と言ったのだという。
チーム長(30代後半)は、「そんな学生を相手にするな」と話す。「採用の合否は、相対的に決まる。いきさつや理由、背景をきちんと説明できるわけがない」と小バカにしたように笑う。担当者は25歳前後のビギナーだが、上司のお墨付きをもらったからか、「心の病みたいな学生だった」と茶化していた。
チームの空気は、「内定をすでに決めたのだから、学生が余計なことを言うんじゃない」といったものだった。筆者は、学生の言い分は正論だと思った。聞く限りでは、最終面接まで残っていたが、不採用となったらしい。理由を知りたいと思うのは当然ではないか。理由を聞くことで、今後の就職活動にも何らかの形で生かすことができるだろう。ところが、採用チームのメンバーは「うつ病だから相手にしないほうがいい」と、それ以上話題にしない。
2週間ほど後、再びこの採用チームを取材した。メンバーによると、あの学生はさらに電話をしてきたという。「不採用になった理由を知りたい」と繰り返したようだ。筆者はこの学生と面識はないが、心の中でエールを送っていた。チームのメンバーは、こんなことを言いたいかのようだった。
「俺たちは、学生を雇ってやっているんだ。余計なことを言うんじゃねぇー」
理由など説明できるはずがない
「相対的」に評価を決める人事部
日本企業では採用に限らず、配属、人事評価、人事異動、リストラなど、人事に関わる様々なイベントが常に「上意下達」である。人事権を持つ上層部で決まったことに「下につく人たちは無条件に従え」と言わんばかりの風土がある。
それに疑問を呈すると、「逆らった」「生意気」「造反」と反感を買うばかりか、ひどい場合には「うつ病」と揶揄されることまである。結局、本音や事実を隠し、建前や歪曲された「事実」を伝える話し合いの中で、人事による決定事項が社員に告げられる。
なぜ日本企業は、採用や配属、昇格、異動、リストラなどのときに、社員にありのままの評価を伝えないのだろうか。それは、前述の採用チームのリーダーが発したこの言葉にヒントがある。
「採用は、相対的に決まる。いきさつや理由、背景をきちんと説明できるわけがない」
この「相対的に決まる」という言い分が、曲者なのだ。2011年、ビジネス雑誌の特集(テーマは人事評価)で取材したことがある、50代の著名な人事コンサルタントの言葉を使い、補足したい。
「課長を部長や本部長にするとき、その期間の実績や成果だけでは決めない。課長の年齢、入社年次、同期生の昇格の状況、本人の性別や家庭状況、今後の伸びしろ、社長や役員からの評価、過去の人事評価、大きなトラブルの有無、今後の体制における課長の想定され得る位置づけや扱い、部下や取引先などとの関係づくり……。そして、前任の部長のもとで起きた問題や課題、それらを課長が克服できるか否か、今後の会社の事業戦略。これらを総合的に見て、相対的に決めていくのが人事の処遇。特定の期間の成果や実績だけで昇格や人事異動、リストラの対象になるかどうかを選定している会社は、ほとんどないはず」
これは、幅広い観点から広く、深く判断し、適材適所の人材を選ぶということなのだろう。逆に言えば、評価される側にとってはどこかに曖昧さがあり、理不尽で、納得できない感情が残る。人事コンサルタントは、「人事の妙」という言葉を使って説明していた。
「人事の妙というさじ加減を心得て、適切な判断ができるのが優秀な人事マンであり、管理職であり、経営者。人事の妙の意味がわからない人は、人事権を持つべきではない」
この捉え方に近いことは、筆者がここ十数年の間に接して来た、中堅・大企業の人事部の役職者たちの半数近くが、話すことでもある。人事の処遇が「相対的に決まる」ことはやむを得ないとしても、そこには一定の歯止めがないといけないと筆者は思う。「相対」という名のもと、「さじ加減」という恣意・主観が浸透し、人事権を持つ人にとって都合のよいことは社員に伝えられるものの、不都合なことが覆い隠されるのは好ましくない。
本来は、採用や配属、昇格、異動、リストラなどが決まっていくプロセスや決定理由などは、可能な限り本人に伝えられるべきだ。これらが、キャリア形成や生き残りの術を人事対象者に意識させる、貴重なステージとなる、
社員に評価の理由を説明することは
キャリアを積ませることにつながる
たとえば、前述の人事コンサルタントの話を基にして言うと、ある課長を「部長に昇格させない」と判断したときは、少なくともこんなことを本人に伝えたい。
「今回、部長になる○○がこんな評価を受けていて、同期であるあなたはこんなに低い評価のグループにいる。今後の伸びしろを考えると、○○はここまで成長すると思われている。○○にはこんな力があり、こういうことができると判断された。それに対してあなたは、その力がこれほど足りない。だから、部長にはふさわしくない」
これは逆に言えば、「会社として、今後あなたにはこんなキャリアを積んでほしい」という願いでもある。ところが、多くの企業でキャリア形成は、それぞれの社員に委ねられている。社内にキャリア形成の道筋がないのだ。意識の高い人は、個人の判断で資格の学校に通ったり、社会人大学院などに通ったりしている。その努力は虚しいものに終わることがある。資格や修士号を取ったからといって、大きな仕事を任されたり、役員などに抜擢されたりする可能性は低い。中間管理職などで定年を迎えることのほうが多い。
30~50代になって昇格などで負けると、八方塞がりに陥り、リベンジができない状態になってしまいがちなのが日本企業なのである。とりわけ、高学歴でありながら社内で行き詰まったような人は、過去を振り返ることで劣等感を拭い去り、心のバランスを保たざるを得ない。一定の力がありながら埋没している人もいるはずなのだが、今の日本企業の人事構造の中では浮上できないようになっている。
成果主義は「人事評価」であり
「人事の処遇」とはリンクしない
よく言われる「成果主義」は、1990年代前半の頃に比べ、社員の人事評価を行なう際に成果や実績で判断するウェートが高くなっていることを意味する。はっきり言ってしまえば、これは「人事評価」であり「人事の処遇」とは直接関係ない。「成果主義」のもとで人事評価が高い人がいたとしても、その人が認められ、昇格をするわけではないからだ。人事の処遇、たとえば課長から部長にする、部長を役員に抜擢するといった扱いは、人事評価とリンクしているとは限らない。日本企業の多くは、「実力差」をきちんと反映するようには、組織が十分に設計されていないのだ。
このままでは、「負けた人」の不満が溜まる。年を追うごとに、同世代の中で役員などに出世する者が現れたり、年下の優秀な人が台頭して来たりする。焦りや不満、コンプレックスはどんどん激しくなる。なんとか自分を大きく見せたい――。バカにされたくない――。現実が自らの要求水準に追いつかないから、「負けた人」は劣等感の塊と化していく。
筆者の観察では、こうしたタイプは40代になると高学歴層を中心に爆発的に増える。最後に、その一例を挙げよう。
筆者は2007年、準大手の出版社(社員数300人)で、2人の副編集長(課長級)の愚痴につき合わされたことがある。もう「時効」と言ってもよいので、そのときの状況を書こう。
2人の副編集長は数ヵ月前に行なわれた人事で、ライバルである副編集長が編集長(部長級)へ昇進したことに不満を持ち、怒りを露にしていた。「なぜ、あんな奴が……」というものだ。
当時この編集部では、3人の副編集長が1つの編集長のポストを競い合っていた。編集長になった男性は40代後半。慶應大出身で、その上の役員も慶應大出身だった。選ばれなかった2人の副編集長は、「大学の後輩であるという理由で、役員があいつを編集長に昇格させた。あの男は学閥の力でのし上がった」と不満を漏らす。2人の副編集長も40代後半。早稲田大と中央大を卒業しているらしい。自分たちが編集長になれなかったのは、学閥の力がないからであり、能力や実績では負けていない、と言いたいようだった。
「なんとか自分を大きく見せたい」
引導を渡さないから勘違い社員が増える
結論から言えば、この捉え方は事実誤認である。数年後に聞いた話によると、彼らが「慶應大卒」と言っていた役員は、実は中央大出身だった。2人の事実誤認だったのだ。
また、早稲田大と中央大卒の2人の副編集長の仕事のレベルは相当に低い。筆者がこの十数年、90~110人ほどの編集者とコンビを組んで仕事をしてきた経験を基にして言えば、平均以下のレベルである。会社がこんな人たちを副編集長にしたこと自体、人材難であることを立証している。これが準大手出版社の限界なのだろう。
おそらく彼らが編集長になれなかったのは、学歴や学閥ではなく能力や実績が編集長にはふさわしくないと、「相対的に」判断されたためだと思う。10年ほど経った今、編集長になった慶應大卒の男性は役員になっている。早稲田大卒の副編集長は編集長になることなく営業部に移り、部下のいない部長をしているという。中央卒の副編集長も、データ管理を行なう管理部門に異動となり、やはり部下のいない部長をしているらしい。
編集長になれなかった時点で会社が引導を渡しておけば、2人はこの10年の間に、新たな職場でキャリアをつくることができたかもしれない。将来、70代まで働かなくてはいけないような時代になることを踏まえると、こういう「負け組社員」に対して会社が早く引導を渡しておくほうが、本人にとってもキャリア形成をする上でメリットがあるのだ。
人事が社員の処遇を「相対的」に決めるのは仕方がないとしても、その詳細を伝えないから本人は勘違いし、定年寸前になりながらも「実績のない高給取り」として、恥じらいもなく会社に居座る。一方で、「相対的に採用の合否を決める」という言葉のもと、冒頭の慶應大の学生のように、無念の思いに浸る人があらわれる。
日本の人事部は学生や社員の評価において、「相対」という言葉の意味を改めて考え直すべきではないだろうか。