総合戦前にさかのぼる集団就職
今年も間もなく卒業と入学、そして就職のシーズンがめぐってくる。年度替わりの光景には、時代や地域の差を超えた、ある共通した要素が感じられる。別れと出会い、悲哀と期待。それは日本の戦後でいえば、高度経済成長期の「集団就職」に象徴的に見られたものかもしれない……。
こんなふうに「集団就職」という現象は一定の年代以上の人々にとり、ほぼ自明なイメージを喚起するものと捉えられてきた。ところが、山口覚・関西学院大教授の著書『集団就職とは何であったか−−<金の卵>の時空間』(ミネルヴァ書房)を読むと、これは「明確な定義のない言葉」だし、「集合的記憶違い」さえあったことが分かる。そもそも集団就職の全体像をきちんと論じた研究は従来なかったという。
集団就職は、この本の定義によれば「主に戦後・高度経済成長期に公的機関の諸制度によってもたらされた、新規中卒就職者を中心とした大規模な若年労働力移動現象および関連現象」である。高度経済成長とは一般に1955〜73年の間、日本で起こった急激な経済成長を指している。
当時は毎年3月から4月、東北地方から東京へ、九州から大阪あるいは愛知へ、中学を卒業したばかりの若い男女が就職のため列車などで一度に、また大量に移動する光景が見られた。人手不足の中で都市部の工場などの求人に応じた彼ら彼女らは「金の卵」と呼ばれ、日本の屋台骨を支える存在ともいわれた。
この本は学術的な研究書だが、初めて明らかになった点がいくつもあり、興味深い。例えば、戦前まで源流をたどりうることをはじめ、集団就職はより広い時空間の中で捉えるべき現象だという指摘が一つ。もう一つは、これまで多くの文献で「初の専用臨時就職列車」とされてきた54(昭和29)年の「青森発上野行き」が、実は日本初でも戦後初でもなかった事実である。
著者は経済学や経済史でなく、地理学の専門家だ。全国各地の自治体の資料や地方紙の記事を丹念に集め、どの時代にどれだけの人々がどう動いたか、事例をコツコツと積み重ねた労作である。その結果、専用臨時就職列車は戦時体制下の39年4月、高等小学校卒業者687人を乗せて秋田駅から出発した上野行き「少年臨時列車」までさかのぼることが分かった。戦後についても集団就職の専用臨時列車の最初は51年3月、主に紡績工場などに勤める女性を乗せ長野駅から名古屋へ向かった「織女星(しょくじょせい)号」だった。
ただし「集団赴任の最盛期」は50年代半ばから60年代にかけてで、「高度経済成長期とほぼ一致する」。さらに53年には東北地方を歴史的な大凶作が襲った背景があり、「東北地方の専用臨時就職列車としては戦後第一号」にすぎなかった54年4月の「青森発上野行き」も、「歴史的な重要性を失ったわけではない」と位置づける。
53年の大凶作は一方で「人身売買」が問題化するような状況を伴っていた。そして集団就職の基礎を成す「職業紹介制度」は「最初期から人身売買対策として始まっている」と、著者は戦前とのつながりに注意を促す。日本で最初の「公益職業紹介所」ができたのは06(明治39)年とされるが、この年も東北地方で飢饉(ききん)が起きていた。「多くの困窮民を生じ、此等(これら)の子女が……人売の輩(やから)に誘拐せられたるもの多数あり」という戦前の資料が引用されている。
他にも、県民性の演出や都市イメージの向上策、返還前の沖縄からの集団就職など多様な切り口を提示している。戦後という「近過去」にも、まだ十分に検証されていない事象があること、視野の広げ方一つで新しいアプローチが開かれることを教えてくれる好著だ。