曽和利光の「性格と採用」|【第4回】適性検査の結果に違和感を覚える理由

総合曽和利光の「性格と採用」|【第4回】適性検査の結果に違和感を覚える理由

人事の方と適性検査などの話をしているときに、「あれって、本当にどのぐらいの精度なんですかね」と言うような質問を受けることがよくあります。実際に会った受験生と、その人の受けた適性検査の結果との間に、いろいろ違和感を覚えることがある、というわけです。

対する回答としてはもちろん、適性検査の品質を表す指標として「信頼性」(モノサシとしての安定性)がどうだとか、「妥当性」(測定したいものが測れているか)がどうだとかあるのですが、そもそも完璧に性格を測定できる適性検査などあるわけがありません。適性検査においては、基本的には自分で何らかの自己イメージをもとに回答しているわけですし、その自己イメージと、実際にその人が取っている行動との間には乖離があるのが普通です。人は自己認知が甘く、誰も自分のことを完璧には理解していないのです。

さらに、「本当の自分」と「演じた自分」が異なることがあるという問題もあります。哲学的な話をするつもりはないのですが、元々の傾向として自分が持っており日常的な場面での行動から推測される性格(これをここでは「本当の自分」とします)と、仕事の場面において実際に行動として表れているものから推測される性格(ここでは「演じた自分」とします)とが違うのは普通のことです。人は元々の自分の傾向を押し込めて、長い間別の人柄を演じることはできないでしょうから、長い目で見れば(長期間、その人を観察している人から見れば)、両者は、結局は近づいていくのかもしれません。しかし、仕事という人生の一面の短い間のみ見ている人から見れば、全く違うものに見えてしまうのも無理はありません。そうすると適性検査の結果が間違っていると思えることもあるでしょう。

加えて、いわゆる知的能力の高い人は、演じる力が強いということもあります。よく「”能力”は七難隠す」と言ったりするのですが、知的能力が高ければ、自分がその場でどのような役割を求められているのか、どういう行動を取れば人に喜ばれるのかなどを理解することができるため、元々の自分の傾向を抑えて、それとは別の求められる行動を取りやすいということです。言い換えれば、知的能力の高い人は、その人の元々の性格の傾向が直接的には行動に出にくいとも言えます。逆に言うと、知的能力の相対的に低い人は、性格傾向が強く出やすいと言うこともできるかもしれません。

また、これは特に日本人に言えるように思うのですが、「本当の自分」さえ、場によって変化することがあるということも、適性検査の違和感を生み出す原因かもしれません。別に演じているつもりはなくても、家族の前と、友人の前と、会社での自分は違っていることはよくあることではないでしょうか。「役割意識」という言葉がありますが、子どもの頃から怒られるときに「恥ずかしいでしょ」「人が見ているから止めなさい」と言われる日本の文化で育った人の多くは、「俺が、俺が」と自分を強く打ち出すよりも、場をよく見て、空気を読んで、そこにふさわしい役割を自然に演じるように教えられています。そのように育った結果、どんな場でも変わらない「本当の自分」の傾向自体がそもそも比較的少なくなるのではないでしょうか。年を取れば取るほど、それでも人の傾向は硬直化していくとは思いますが、新卒採用などの若い可塑性(かそせい)が高い人ほど「本当の自分」と言えるほどの確固たる自分はないのかもしれません。

以上、適性検査に違和感を覚える理由として「自己認知の甘さ」や「演じた自分」「本当の自分の不確定さ」などを挙げてみました。これは、「だから適性検査などあてにならない」と言っているわけではありません。むしろ、様々な研究が示すように、適性検査は面接等と同様もしくはやり方によってはそれ以上の信頼度のある選考手法です。ただ、適性検査は、結果が明確な数値で出ることにより、結果がより断定的に見えてしまうので、違和感がある場合に、特に気になってしまうということなのだと思います。違和感があった場合、単に適性検査を否定してしまうのではなく、冷静になって、その違和感が何から来るのかを、面接やその他の手法で確認するという姿勢が大切なのではないでしょうか