女性雇用産後うつを経験した4児の母の”天職” 子だくさんワーキングマザーの仕事論<3>
3人以上の子どもを生み育てながら自身のキャリアを築いてきた”子だくさんワーキングマザー”を訪ねる連載。第3回は4児の母、産後セルフケアインストラクターの吉田紫磨子さん(43)だ。
ワーキングマザーは、キャリア構築の過程でさまざまな壁や課題に直面する。連載初回に登場した、5児を育てる事業家・菊地加奈子さんは、子どもを持ち起業することで、再就労を阻む社会の仕組みと対峙した。第2回に登場した資生堂の3児の母・上野朋子さんの場合は、両立生活における夫とのパートナーシップという悩ましい課題に奮闘中だ。
吉田さんの場合は“出産・育児・社会復帰”を通じて自己理解が進み、子育てや家庭を重視しながら社会とつながる働き方が明確に見えてきた。
ぼんやりとした将来ビジョン
吉田さんは現在、産後女性のケア普及に取り組むNPO法人「マドレボニータ」の認定インストラクターとして、ボディケア教室を開講している。取材当日、吉田さんの「産後のボディケア&フィットネス教室」を訪れると、乳児を伴った母親たちがボールエクササイズで汗を流していた。アップテンポのBGMに合わせて、かなりハードに体を動かす1時間。指導する吉田さんの体のキレは誰よりも鮮やかだ。後半は参加者によるコミュニケーションワークを行い、約120分のプログラムが終了する。
「昔から運動すること、体を動かすことが苦手だった私が、今、この仕事に使命を感じていることに、あらためて不思議な気持ちがしています」
吉田さんの20代を振り返ると、仕事と子育てを両立させるロールモデルや、出産リミットの話を含めた産前産後の実態についての情報、女性の人生の選択肢が、今よりも乏しく少なかった状況が垣間見える。

バブル崩壊が深刻な社会問題と認識され始めた1993年、吉田さんは慶応義塾大学を卒業した。兄は家業を継ぎ、姉は家事手伝いと、兄弟が誰も就職活動をしなかったこともあり、吉田さん自身も企業のコマにはならない自営業の父の働き方に影響を受けて「自分の自由になる時間を優先する働き方」を選択。予備校教師や大学研究室の秘書の仕事に就いた。
だが、いざ仕事を始めると、複数の職場に縛られるフリーター生活は意外にも不自由だった。25歳で大手自動車メーカーの契約社員となり、定時に出退勤するOL生活が自分の性に合うことを初めて知る。
「自分自身の人生の展望はぼんやりしたまま。20年前はまだ、出産年齢にリミットがあるという情報も知識もなく、子どもを生んで仕事を続ける先輩も社内にはいなかった。寿退社する人が大半でした」
27歳で結婚。将来のライフプランをふたりで確認しあうまもなく入籍したが、夫は3人兄弟、吉田さんも4人兄弟だったことから「子どもがいっぱいいたら楽しいね」というイメージだけは共有していた。
まさかの“産後うつ”に見舞われる
第1子を身ごもったのは結婚4年後。妊娠5カ月を機に、30歳で迷わず退職して専業主婦に。当時の出産は「怖い」「痛い」などネガティブなイメージが強く、吉田さんは友人から借りた自然出産のビデオに目を奪われる。出産後に自宅で穏やかにほほえむ母子の映像が強くインプットされたのだ。何のビジョンもなかったところに“理想のお産”だけが明確にイメージされ、以降、吉田さんはその実現のため、懸命に体づくりの情報を集めては実践する。しかし第1子出産後、吉田さんは産後うつ状態に見舞われてしまう。
「周到な事前準備とシミュレーションのかいあってか、出産自体は安産でした。でも”出産がゴール”だったんです。いざ生んでみたら、自分の体がこんなにもあちこち痛くて、しんどくなるなんて……」
理想の出産を思い描いてきただけに、予期せぬ産後のリアルに打ちのめされた昼は家で乳児と2人きりで孤独。子どもの誕生で、仕事のやる気スイッチが入った夫の帰宅は深夜になり、いつしか夫婦の会話もなくなった。でも自分は専業主婦だから、家計を支える夫の帰りを起きて待たねばならない。子どもの夜泣きで連日寝不足でも、夫に本音を言うことがはばかられる。無理をおして頑張り続けるうち、心と体が悲鳴をあげた。
「出産から5〜6カ月経ったある日、突然朝起きられなくなったんです。娘が号泣しているのに、抱っこができない。気分がふさいでしまう。相談したい友達は働いているし、専業主婦の友人はみな、育児を難なくこなしているように見える。母乳にこだわりたかったから心療内科には行きたくない。なぜ私だけ……と、3カ月ほど引きこもっていたとき、マドレボニータの前身である産後ボディケア教室の情報を得て、思いきって家の外に出たんです」
ボディケアで体を動かしたら、体が少し楽になった。同じ悩みを抱える大人の女性と、胸にしまった思いを口に出して話すことで、心が救われた。教室に通ううちに、復職準備に顔を輝かせる仲間の姿に心が動いた。そして「もし今自分が死んでも、誰にも迷惑がかからないほど社会から必要とされていない存在だ」と、自分を追いつめていたことにも気がついた。
産後女性のケアを仕事に
社会に貢献して他者から必要とされたい、自分で働くことで報酬を得たい。これは人としてごく根源的な欲求だ。産後に社会から切り離される状態を経験して、吉田さんは改めて自分の心の声を見つめることとなった。
自分が本当にやりたいことは何か。それは産後女性のケアに携わること。産後セルフケアインストラクターは個人事業主になるので、収入面での不安は否めないが、どうしてもトライしたい。夫自身も、将来の自分への投資として再就学を検討していた。専門学校卒の自分が大学に行くことで、子どもたちの勉強を自信を持ってみてやりたいという気持ちだった。それなら、うちは経済的な豊かさは決して求めず、それぞれが未来のために投資する生活でいいじゃないかと、2人で腹をくくった。
吉田さんはさっそくマドレボニータの養成講座に申し込んだ。母体や骨格、筋肉などの知識を座学で学び、実技指導の訓練を受けた。半年間の研修を経て2004年に認定インストラクターとなり、33歳で教室を開講。養成講座で学んだとおりに、税務署に屋号を届けて青色申告を申請し、ブログやニュースレターを駆使して、ネットと口コミで集客に励んだ。
ところが、インストラクターとして社会復帰の第一歩を踏み出したタイミングで、夫が次の子どもを望んできた。起業したばかりで、産前産後に教室を休むことになる。だが、吉田さん自身も「もう一度、産後をやり直したい」思いにかられて、起業翌年に子づくりを決断する。
「長女出産後にうつを経験したので、正直、2人目出産の躊躇もありました。でも、産後の心身のケアを指導する自分が産後に失敗したままでは、ダメだと感じたのです。次女を身ごもり、臨月近くまで働きましたが、妊婦クラス用のエクササイズが功を奏したのか、次女は超安産でした」
その後、吉田さんはインストラクター業を続けながら、第3子、第4子と産み育ててゆく。
その間、夫のライフスタイルにも変化があった。次女出産の際には、有給をつなぎ合わせて10日間の育休を取得。さらに大学に通う生活が始まったことで帰宅時間も早まり、休日は家族の食事を献立から考えて料理するなど劇的に変化。夫婦の間に信頼感が生まれた。
「最近でこそ、マドレボニータの知名度が上がって徐々に状況が変わってきましたが、会社勤めを続けていたほうが収入面はよかったと思います。でも、私は17時以降には仕事をしない働き方を選びたいし、PTAにも参加したい。子どもたちに塾を強制するより、娘たちみんなと家族そろって夕ご飯を食べる幸せを大切にしたいんです」
自分が救われたことで得た力を還元したい
家族が増えるたび、家事と育児にかかる時間や労力は増すばかりの怒濤の日々を、どうにかやりくりして夫と恊働しながら乗り越えてきた。そして今年、ついに長女が中学校に入学した。
「今は上の2人が家事を手伝ってくれたり、下の子たちの面倒を見てくれているから、気持ちは少し楽ですね。4人でケンカもしますが、中学生の長女が2歳の4女とよく遊んでくれるなあと、ありがたくて。育児に関しては特に心配せず、親の責任を感じすぎず、娘たちの生きる力に任せたい。彼女たちと、本音で話せる関係性を築きたいと願っています」
吉田さんは今日も朝4時に起きると、集客と自身の心の整理のためのブログ執筆作業にとりかかる。発信内容は、日本の母子健康において産後女性に対するケアが不足していること。いわゆる“産褥期”を書き続けることが、ライフワークとなった。4月には、マドレボニータ代表の吉岡マコさんと『産褥記 産んだらなんとかなりませんから!』を上梓したところだ。
自身の生き方と仕事が一体化したような人生を歩む彼女が、子育てに追われつつも働き続ける理由とは―。
「産後ケアの仕事にいちばん救われているのは、実は私自身なんです。いまだに、産後うつで自殺した人の報道に触れるたびに『あれは、私だったかもしれない』と思ってしまう。これはもうミッションだと感じています」
吉田さんのモチベーションになっているのは、仕事をすることで自分が救われているという意識。そして、かつての自分と同じように、今、苦しんでいる人たちを救いたいという思いだ。
10年後には、上の子2人は成人、下の2人は10代です。私は54歳。まだインストラクターを続けていられたらいいですね。かつて、人生に対するビジョンがまったく見えなかった私も、この先の人生を少しずつ見据え始めています。産後の心身の変化について学生たちに教えるなど、知識と情報を提供しつつ、不安を取りのぞくことで背中を押せたらと思っています」